はじめに / フェローシップの成り立ちについて

The Shigeaki Hinohara,MD,International Primary Care Fellowship

こうして「日野原フェローシップ」は生まれた。

笹川記念保健協力財団会長 紀伊國献三氏 インタビュー
聞き手・構成:山岡淳一郎(ノン・フィクション作家)

日野原フェローシップは、これまでにプライマリ・ケア教育に熱心な指導医や大学教員を、数多く、米国ハーバード大学の主要教育病院、ベス・イスラエル病院(現Beth Israel Deaconess Medical Center:BIDMC)に派遣している。「ケアを受けたければ、べス・イスラエル」といわれるほど医療と看護が充実した環境での研修は、日本の「プライマリ・ケア医療と教育の質」を高める一翼を担ってきた。

いまでこそ、身近で幅広い医療としてのプライマリ・ケアの大切さは一般にも知られているが、フェローシップが始まった1980年代初頭は専門医教育の全盛期。このままでは全人的に人を診られる医師がいなくなる、と日野原重明医師(1911~)と紀伊國献三氏(1933~)は危機感を募らせた。そして紆余曲折を経て、財団法人日本船舶振興会(現日本財団)の会長、笹川良一氏(1899~1995)の協力を得て、ベス・イスラエル病院への寄付を基金にフェローシップをスタートさせたのだった。

フェローシップを立ち上げるには長い助走と、人と人の運命的な出会いが必要だった。「神の見えざる手」を知る紀伊國氏に「時代の証言者」として、その経緯を語っていただこう(肩書はすべて当時)。

国際基督教大学で育まれた地域医療への思い

――紀伊國先生は、国際基督教大学(ICU)の第一期生(1957年卒)で、ICUの保健体育教授だった日野原先生から「病院管理」への進路をアドバイスされて医療の世界に入ったとお聞きしています。そもそも日野原フェローシップの発想は、どのようにして生まれたのでしょうか。
紀伊國 僕は、ICUを出てしばらく、聖路加病院で病院管理のレジデントをした後、運よくフルブライト留学生に選ばれました。シカゴのノースウェスタン大学大学院で学び、1961年に帰国して厚生省の新設された「病院管理研究所」に入りました。
 じつは、60年代の後半、ICUで大学のクリニックではなく、地域のための病院をつくる話が進んでいました。日野原先生は地域の医療をやろうと思っておられ、医師3名、看護師4名、臨床検査技師3名に話をつけて開院準備を整えていたのです。ところが、東大医学部の学生が無給のインターン制度などに反対して大学紛争に火がつきました。ICUでも紛争が起きて、病院設立の話はなかったことにしよう、と理事会が決定したんです。悔しくてね。何とかしたい、と思いました。
――徒弟制度の名残りのようなインターン制度には医学部生の反発が強かったですね。
紀伊國 ほとんどの大学医学部の先生たちはインターン廃止に傾きました。そのなかで日本医師会会長の武見太郎先生(1904~1983)と、虎の門病院の院長、冲中重雄先生(1902~1992)、そして日野原先生の3人だけが、いや違う、と。無給でやらせるのがおかしいのであって、しっかりしたカリキュラムを作って教育すべきだとおっしゃった。結果的にインターン制度は廃止されますが、医師免許取得後の2年間の臨床研修へとつながっていきます。ともかく、何とかして地域の医療を支える機関をつくりたいと思いながら、僕は1970年にミズーリ大学医学部に赴きます。医療管理学講座で1年間、教鞭をとりました。そのときボストンのベス・イスラエル病院(Beth Israel Hospital)のミッチェル・ラブキン院長(1930~ ※1)がミズーリに講演に来たんです。ラブキンさんはカレッジもメディカルスクールもハーバードで学んでおり、知性はずば抜けていました。
――ベス・イスラエル病院は1890年にユダヤの人たちが設立した病院ですね。
紀伊國 ええ、差別されて行く病院がなかったユダヤ人のためにつくられた病院です。ボストンでは難病ならMGH(マサチューセッツ総合病院: Massachusetts General Hospital)、ケアを受けるならベス・イスラエルと言われるぐらい有名です。ラブキンさんはそこで35歳から30年間院長を務めます。彼のミズーリでの話がとてもおもしろかった。ベス・イスラエル病院は、医療機関で初めて「患者としてのあなたの権利」を定めています。それを真似して米国病院協会が「患者の権利章典」を制定するのですが、患者の身になった発想が新鮮でした。
――そのラブキン教授と会った時点でフェローシップを、と思われたのですか?
紀伊國 いやいや、その前に日野原先生がこれからの医療を実践する場を設けねばなりませんでした。専門分化し、治療を中心とする医学教育に日野原先生は警鐘を鳴らし、予防医療が大事だと唱えておられた。千代田区平河町の砂防会館に日野原先生の考えを具現化するクリニックを、何とか設立しました。当時はお金がなくてね、検査用の冷凍ストッカーはアイスクリーム用の冷凍庫を安く買ってきて、間に合わせたぐらいです。そうして、72年8月、クリニックの医師や看護師、事務方も含めて14人が、ゴルフ場のオーナーだった大森正男さんの箱根仙石原の別荘に集まって勉強会を開きました。

思いがけない出会いで生まれたライフ・プランニング・センター

――大森さんは医薬品卸の大森薬品の経営者だった方ですね。
紀伊國 そうです。それで、勉強会の最中に、突然、電話がかかってきたんです。大森さんの他の別荘に笹川良一さんが滞在されていて、突然、倒れた。急遽、日野原先生が呼ばれて往診に行きました。おそらく初対面でした。笹川さんの容体はかなり悪かった。訪問看護の第一人者の紅林みつ子さんと日野原先生が往診して笹川さんは危ないところで一命をとりとめたのです。まったく後遺症は残りませんでした。一週間後、銀座にあった笹川さんのオフィスに呼ばれました。皆さんは何をやっているのか、と聞かれ、日野原先生が「予防医学」の考え方を伝えた。すると笹川さんは「私は消防をやってきた。消防でも大事なことは予防だ。皆さんの考えはすばらしい」とクリニックの支援を申し出てくださったんです。支援を受けるには財団をつくらねばなりません。そこで73年に「ライフ・プランニング・センター」を創設しました。
――それにしても奇遇ですね。日野原先生が笹川さんを往診していなかったら、その後の展開は考えられなかった。まさに運命の出会いだったのですね。
紀伊國 不思議ですよ。あの往診がなければ、僕らは何をしていたか……。そのライフ・プランニング・センターの第一回の理事会で、ハンセン病の国際的なサポートを視野に笹川記念保健協力財団の設立が決まります。

ベス・イスラエル病院長ラブキン教授との交流と基金の設立

――ベス・イスラエル病院のラブキン院長が初来日されたのも、そのころですか。
紀伊國 あれは、75年だったと思います。ライフ・プランニング・センターの国際セミナーで、プライマリ・ケア教育について発表してもらいました。いい話でしたね。笹川さんの挨拶もあった。当時、富士五湖のひとつの本栖湖に船舶振興会のモーターボート選手の育成所がありました。現在は九州に移っていますが、そこに皆で行ったとき、ラブキンさんが「自分もボートに乗りたい」と言って、笹川さんがえらく気に入った。ラブキンさんは、直属の部下のトム・デルバンコ(※2)を紹介してくれて交流が深まります。
――具体的にフェローシップの創設が決まるのは、どのタイミングだったのでしょうか。
紀伊國 1980年代の初頭、渡米した笹川良一さんにベス・イスラエル病院を見てもらったんです。病院はきちんと運営されていました。たとえばプライマリ・ナーシング。1人の患者さんを1人のナースが一貫して受け持ち、責任をもってケアするしくみが整っていた。個々の患者さんのニーズをしっかり受けとめていましたね。僕も、なんとかベス・イスラエルを支えてほしいので、そういう面を笹川さんにアピールしましたよ。それで笹川さん、寄付したい、となった。100万ドルを寄付しました。いまから思えば、ハーバード大学という名前で笹川さんを誘導したのかもしれない。僕もワルですね(笑)。
ハーバードは投資が非常に上手かった。年間5%以上の運用収益を上げていました。100万ドルなら、年間5万ドルを生む。そこで100万ドルを基金に「笹川フェローシップ」という名称で、運用収益を使って日本でプライマリ・ケア教育をする人に奨学金を出そう。と同時に米国にいるアジア系の医師でプライマリ・ケアの教育をしたい人に1年交代でお金を出しましょう、となったのです。
――1980~90年代初頭、日本は「バブル経済」に包まれました。お金が潤沢にあったのは間違いないですね。
紀伊國 極端にいえば、良い仕事にはいくらでもお金がありました。1986年にソ連のチェルノブィリで原発事故が起きました。91年にゴルバチョフ大統領が来日したとき、側近のナンバーツーから笹川陽平さん(現日本財団会長・1939~)に秘かに連絡がありました。チェルノブィリの被害調査や治療への協力を求められたのです。向こうは唯一の被爆国の日本にはノウハウがあるだろうと思ったのですね。その話を振られた僕は、放射線影響研究所理事長の重松逸造先生(1917~2012)に連絡しました。重松先生が広島、長崎大学の先生をうまくつないでくださって、疫学的な調査に取りかかりました。当初、共産党を窓口にされたのですが、結果的に5つの医療機関と契約を結びました。それがよかったのかもしれません。ロシアでは母親たちがとても不安がっていたので、0歳から10歳までの子ども20万人の健診をしました。そのうち3万人は原発事故後に生まれた子どもです。事故から5、6年経って被爆の女の子に甲状腺がんが増えました。そのデータを出したのは財団なんですよ。笹川陽平さんは惜しみなく、お金を注ぎ込みましたね。

日野原先生の名を冠した「フェローシップ」でプライマリ・ケア教育の発展を

――1996年にベス・イスラエル病院は、通りを挟んだ向かいのニューイングランド・ディーコネス病院と合併し、医師約1300人、従業員約7700人の巨大な旗艦病院、Beth Israel Deaconess Medical Centerとなりました。そのことは、フェローシップに影響はありませんでしたか。
紀伊國 じつは、ラブキンさん自身は合併を考えていなかった。ただ、93年にボストンで一番大きな病院のMGHがブリガム&ウィメンズ病院(Brigham and Women's Hospital :BWH)と合併し、周りの医療機関に大きな影響を与えていました。それで仕方なく、合併した。同じ地域にある病院の合併なので、患者さんの層も似てきますね。うまくいったかどうか……。ただ、ベス・イスラエルの看護がいいというイメージはずっと残っていました。
 フェローシップは、日野原先生が100歳になられた2011年、名称を「日野原フェローシップ」(正式名称:The Shigeaki Hinohara,MD,International Primary Care Fellowship, supported by Sasagawa Ryoichi)と変えました。笹川陽平さんも、ラブキンさんも、トム・デルバンコたちも賛同してくれました。
――ラブキン教授はじめ、ベス・イスラエル病院の方々と長く、お付き合いをされてきて、どんなことをお感じになっていらっしゃいますか。
紀伊國 さきほど「患者の権利章典」のお話をしましたね。ラブキンさんは、患者の側に立って物事を考える医療者です。人道主義的な視点で、心配りも欠かしません。
 院長時代は毎週、ニューズレターを職員に配って、感謝祭の前には七面鳥の切り方を解説するような気さくなリーダーです。医療費が払えない人でも差別せず、貧しい人向けのファンドの利用を薦めるよう職員に説いていました。
 ただ、彼は、患者の権利を認める一方で、患者の責任にも言及しています。これは立派です。日本の病院も、患者の権利をしっかり受けとめると同時に患者に責任があることも、もう少し言うべきではないでしょうか。患者の暴力的な言動や、看護師さんへのセクハラには、それはいけないと毅然と言わなくてはいけない。そういうけじめも大切だと思います。重要なことはプライマリ・ケアを実践する人が将来の若い人々を教育する仕組みだと考えています。その意味で、今後もフェローシップを通して、日本のプライマリ・ケアが少しでも向上してほしい。そう願うばかりです。

※1 ミッチェル・ラブキン (Mitchell Rabkin, MD)
1966年にわずか36歳でボストンのBeth Israel Hospital(BIH)の病院長に就任した。その後30年の任期の間、「患者の権利章典」を全米で初めて上梓し、患者中心の医療を広めた。また看護の専門性を深く理解し、米国の病院で初めて看護部長を副病院長に任命して、プライマリ・ナーシングを導入した。医学教育の推進にも尽力し、BIHはハーバード大学医学部の主要教育病院の一つとして、トレーニングが必要な若い医療者が憧れる病院 となった。

※2 トム・デルバンコ (Thomas L. Delbanco, MD)
全米で初めての総合診療・プライマリケア部門を、ボストンのBeth Israel Hospitalに創設。ラブキン院長とともに、教育病院におけるプライマリ・ケアを確立する。プライマリ・ケアの診療ならびに研究・教育の魅力を余すところなく若い医師に伝え、この領域を先導した。現在も、先進的な研究を精力的に続けている。